テオドール・クルレンツィスの「異常な」演目と演出@パリ・シャトレ座(モーツァルト『レクイエム』)

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church and moon

10月27日、パリ・シャトレ劇場で、噂の指揮者テオドール・クルレンツィス(Teodor Currentzis)の公演を聴いてきました。

アナウンスされていた曲目はモーツァルトのレクイエムのみでしたが、プラスαがありました。音楽の内容もさることながら、そのプラスαの部分のプログラムの立て方や演出が驚くべきものでしたので紹介します。

観客の反応はクラシックとは思えない熱狂ぶりで、かなり前にシュトックハウゼンが来日した時の雰囲気を思い出しました。

クルレンツィスとムジカエテルナ(musicAeterna)団員の入場、コンサートの「開始」

まず驚いたのは、オーケストラ団員が入ってくるとき、団員全員のコスチュームが教会の葬儀のように牧師のような黒い服装で統一されており、異様な雰囲気だったことです。演奏者はクルレンツィスがディレクションしている、ロシアのペルミという都市のムジカエテルナ(musicAeterna)というオーケストラと合唱団です。ペルミはオイルマネーで潤っている都市のようです。

クルレンツィスが入ってくると、すでに変な歓声が上がっていましたが、指揮台に登りモーツァルトの指揮を開始しようとするまさにその瞬間

なんと電気が消され、演奏が始まりませんでした!

闇の中、まだ聴く準備が整っていない一部の観客の携帯電話やタブレットの光がうるさく見える中、客席の上方から単旋律のグレゴリオ聖歌が流れてきました。観客の視線は指揮者のクルレンツィスから劇場の天井の方へと移って行きました。

これで観客が静まり返った後、次に流れてきたのは中東音楽のような二声の詠唱風の音楽(ドローン声部と、メリスマと微分音を含む旋律)でした。おそらくギリシア正教の教会音楽だと思われます。クラシックの演奏会で普通聴くことはないエキゾチックな音楽の場違いさに戸惑いながら、別世界が立ち表れました。

問題のモーツァルト『レクイエム』の「本編」

それが終わると、ステージに戻り、モーツァルトのレクイエムが始まりました。演奏は素晴らしく、フレージングの微妙な変化がコントロールされており、副次的な旋律が驚くほど分離されて聞こえてきました。また、抑制すべきところはものすごく音量が抑制して耳をすまさせるというように、聴く人の知覚を精密な演奏の制御によって引きつけようとする計算高い意思を感じました。

それは良いとして、レクイエムの中盤に、またしても驚くべき演出がありました。なんと、レクイエムが中断され、もう一度先ほどの上部からの異教的な音楽に戻ったことです!

曲の途中で中断して、別の空間を使って別の曲を聴かせるなんて前代未聞ではないでしょうか?そんなことしたら偉い評論家から非難されたりしないんでしょうか?

ともかく、このように念を押すかのように異教の音楽の復習をしてから、モーツァルトの続きがまた始まりました。ラクリモーサ(涙の日)からだったと思います。

レクイエムはミサ曲なので古典派以前、中世からのポリフォニーのスタイルが入っており、空虚五度の終止形など古いスタイルが取り入れられていますが、そこに別の宗派の宗教音楽に介入させることで、いわゆるモーツァルトを聴く通常のモードから、宗教音楽を聴くモードへちゃんと切り替えてから聴けと言わんばかりの演出です。考えてみれば、世俗的な劇場でレクイエムを聴くという習慣もおかしな話です。

あるいは、モーツァルトが住み、没したウィーンという場所は、東西から文化が流入する場所であり、ビザンティン文化とモーツァルトの関連性に注意を促しているのかもしれません。モーツァルトのトルコ行進曲は中東風だったりしますが、モーツァルトやウィーンの音楽がビザンティン文化からどこまで影響を受けていたのかという問題意識をもらいました。

ともかく、こうしたラディカルな演出によって、聴取の態度変更を迫るやり方は、クラシック音楽を新鮮に聴くための手段としてとても可能性があるように思いました。

音楽を取り巻く時代環境が大きく変わる中、従来通りの演奏活動にNoを突きつける強靭な意志には脱帽でした。コンサート後はスタンディングオベーションがいつまでも続きました。

クルレンツィスによるプログラムノートのメッセージ

最後に、プログラムノートにクルレンツィスの短いメッセージが書いてあったので訳します。

私は古代オリエントの音楽は全般に、音楽に対する別の見方を与えてくれると思う。ギリシア正教の音楽はこの古代の音楽に起源を持っている。そこでは「私は歌う je chant」とは言わず、「ψαλλω, un psaume(聖詠?) 」という。ここでは目的の異なる全く別のコミュニケーションの仕方が示される。私が言いたいのは、ここでは、私はあなたが音楽を楽しめるように演奏するのではないし、それを美しく達成しようとするのではない。私は神への希望の前で自を顕にする。そしてこの希望とは啓示である。【筆者訳】

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